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【社会学(社会学一般および歴史社会学)】 人間の歴史・社会を分析する上で、社会学は重要な指針を提供してくれます。すでにさまざまな視点や理論の蓄積があり、それらを無視してゼロから始めるのは非効率で、苦労して発掘した独自の視点・理論だと思い込んでいたものが、実は社会学では常識的な話、ということにもなりかねません。とはいえ、社会学もある時代の産物であって、それゆえの可能性と限界を常に携えていることはいうまでもありません。

<雑誌>『社会学評論』,『ソシオロジ』,American Journal of Sociology, American Sociological Review, Annual Review of Sociology, British Journal of Sociology, Theory and Society, The Journal of Historical Sociology などが有名です(英語誌では,雑誌の質の1つの指標である影響度(引用回数など)については最初の3つが社会学での御三家という感じのようです。最後の2つ,とりわけ最後のものは歴史社会学に関する雑誌です)。サイト管理者の元所属で発行している(しかし,紀要ではなく査読付きで,誰でも投稿できます)『相関社会科学』も宣伝しておきます。例年半分弱が社会学関連の論文です。

<入門用>

1. 友枝敏雄他著『社会学のエッセンス―世の中のしくみを見ぬく』有斐閣(有斐閣アルマ),1996年

 社会学の基本的な考え方を日常世界に引き付けて平易に,しかし確実に説明しています。社会学に入門するつもりがない人にも有益な本だと思います。入門書らしく章ごとに文献案内もあり,入門書としては十分すぎる出来ではないでしょうか。

2. 倉沢進他編『社会学入門』(新訂)放送大学教育振興会,2003年

 放送大学の教材ですが,コンパクトに社会学のエッセンスをまとめています(放送を聴かなくても理解できるようになっています)。本書に限らず,放送大学の教材は,地味な外観とは裏腹に,入門用としてはなかなかいいものが多い気がします。

3. Richard Jenkins, Social Identity, London: Routledge, 1996

 人はいかにしてアイデンティティを形成していくのか、ということについての突っ込んだ概説書です(専門書とも言っていいレベルですが、ある程度無難にまとめられています)。書名に反して、著者は基本的に個人的なアイデンティティと社会的なアイデンティティを分別しません。人のアイデンティティはある社会におけるthe internal-external dialectic of identification(つまり、個人内発的なアイデンティフィケーションと社会から向けられるアイデンティフィケーションの絶えざる弁証法的な対話)で成り立っているからです。というのが本書の基本的なコンセプトです。人間というものについて考える上で重要な道具となるのは心理学だけではないことが分かるでしょう。

4. 那須寿編『クロニクル社会学―人と理論の魅力を語る』有斐閣(有斐閣アルマ),1997年

 理論社会学の入門用にはこの本が適しています。著名な理論家の理論の要点を簡潔に概観し,章ごとに文献案内を付しています。この本で紹介されている社会学者の中から特にピンと来た社会学者の著作や概説書・研究書を読んでみるというようにすると興味を持って社会学に深入りできるのではないでしょうか。

5. 大塚久雄『社会科学の方法―ヴェーバーとマルクス』岩波書店(岩波新書),1966年

 日本における社会科学の入門書の古典です。やや図式的に過ぎる面もありますが,記述は平易で,社会学の視角を,少し引いた視点で把握することができると思います。非常に出回っている本なので,古本屋にも多く,ブックオフで200~300円とかで売っていることがあります。

6. 野家啓一「実証主義の興亡―科学哲学の視座と所見」盛山和夫他編『〈社会〉への知/現代社会学の理論と方法(下)』勁草書房、2005年.

 現在の社会学においても中心に位置する実証主義を歴史的に概説した論考です。所収されている本は入門用の本ではないのですが、本論文は非常にわかりやすく書かれており、実証主義の基本的なポイントもしっかりと押さえられているので、堅実な入門用としても有用です。理系と文系の違いはいろいろありますが、1つ挙げるとすると、理系の場合は誤りが自ずと(数字などによって)示され、見過ごしたくても見過ごせないことが多いのに対して(多分;理系の事情をよく知らないのですが、文系と比べて相対的にはたぶんそうでしょう)、文系の場合は(実際のところ、文系の中では一見理系に近そうな経済学などもたぶん当てはまります)、研究者が常にかなり自覚的になっていないと大枠での誤謬に気づきにくいということなのだと思います。実証主義を厳格に採用しているつもりで、設定した枠の中では完璧に論理的に一貫しているのだとしても、その枠そのものの適切さについては、それ自体を問う作業をしない限りは、(例えば、自分が部品を担当した機械がスイッチを入れたときに動かなかったというような形で)自動的には問題化されにくいということです。その意味で、文系研究者にとって、実証主義に対する実証主義という姿勢は欠かすことができないものです。そういった実証主義の可能性と限界を本論文で手際よく整理することができるでしょう。下の<その先>の20の文献なんかも、実証主義を考えるうえで有益です。

7. 稲葉振一郎『社会学入門―〈多元化する時代〉をどう捉えるか』NHKブックス,2009年.

 ヴェーバーに始まり、パーソンズを経てゴッフマンやガーフィンケルに終わるよくある社会学の入門書とは異なり、経済学出身の著者らしく、よりメタな次元で社会学とは何であるか(何でないか)について、歴史的に、しかも、単なる学説史的な形ではなく、いわば科学史的な形で解き明かしていく本です。近年の社会学者には、実験心理学のように社会学を普遍的な道具にしてしまおうとする向きも強いように思いますが、社会学がどのような思想・哲学に出自を持つのかを知っておくことも重要ではないでしょうか。そのなかで、経済学と比べて社会学が原理的(問題意識的)に一般理論を形成しにくい背景も明らかにされています。著者は、しかしそれが社会学のアイデンティティでもあり、むしろそうしたいわば中途半端な姿勢で地道にやっていくことが当面重要であると説きます。

8. 木谷信介他編『社会調査へのアプローチ第2版―論理と方法―』ミネルヴァ書房、2005.

 社会学の重要な部門を占める社会調査の方法に関するやさしい入門書です。モデルとなる先行研究の方法を具体的に例示するなど、単なる概念や論理の羅列ではないところに本書の特徴があります。

9. 盛山和夫「量的調査と質的調査それぞれの意義」同『社会調査法入門』有斐閣、2004所収.

 質的研究と量的研究の違いについて、「だいたいみんなこういう風に考えている」という何となくな説明を施す概説が多いなか、あまり教科書ぶらないで著者の考えるところを率直に書いた入門書の一章であるこの論考は、ちゃんと論理的に両者の違いを明記しています。それにより、両者の特徴と限界や注意点、ありがちな偏見を手際よく理解することができるようになっています。ただし、「事例の代表性」に関して、「研究によって事後的に〈代表性〉を獲得する」という指摘はまさにその通りと思う反面、研究に取り掛かる前に、もう少し事例の意義についても深く考えたほうがよいのではないかと思う研究も少なくない気がするので、そのあたりについても一言ほしいところです。というのも、昨今の社会学では、手法の精密性や鮮やかさばかりが注目される傾向があり、取り上げる問題の意義については二の次になっている面もなくはないからです。もちろん、重要な問題を提示しただけでドヤ顔をする人もいなくはないので、そういう人に重要な指摘であることは間違いありません。ちなみに「盛山」は、変換ミスで「森山」になることは絶対にないのでご注意ください。

<その先>

1. ピーター・バーガー+トーマス・ルックマン『現実の社会的構成』新曜社,2003(原著1966)

 理論社会学者からは折衷的な本書の議論は物足りないとされますが、初学者には、社会学の基本的な視点、個人と社会のかかわりについての視座を得るのに適した本です。当時の社会学理論の一つの到達点として、社会的に共有された世界観と諸個人との相互作用によって、あたかも社会は客観的に存在するかのように諸個人に感じられるしくみを整理したものです。同じような視点でアイデンティティに特化して考察した概説的なものとしては,Richard Jenkins, Social Identity, Routledge, 1996もお勧めです。

2. 見田宗介「まなざしの地獄」『現代社会の社会意識』弘文堂,1979所収(2008年に河出書房新社より単行本化)

 青森出身の少年が都市に出て「まなざしの地獄」の中で犯罪者になっていくという、永山則夫(本論文ではN・Nとなっています)の社会学的分析です。あるいは、著者も書いているように、永山を起点とした都市の分析です。「都市のまなざしとは何か?それは「顔面のキズ」に象徴されるような具象的な表相性にしろ、あるいは「履歴書」に象徴される抽象的な表相性にしろ、いずれにせよある表相性において、ひとのりの人間の総体を規定し、予料するまなざしである」。

3. ハワード・S・ベッカー『アウトサイダーズ』新泉社,1978(原著1963)

「社会集団は,これを犯せば逸脱となるような規則をもうけ、それを特定の人びとに適用し、彼らにアウトサイダーのレッテルを貼ることによって、逸脱を生み出す」という当時衝撃的な議論を展開した本で、「レイベリング理論」という、いかにも社会学らしい犯罪や逸脱の見方の始祖です。ただ,真ん中から後ろは退屈な気もします。

4. ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』ちくま学芸文庫,1996(原著1977)

 社会学・教育学では有名な本です。どうやって学校の落ちこぼれができ,独自の文化をつくって,それが労働者階級になっていくかという話です。

5. エミール・デュルケム『自殺論』中公文庫など,1985(原著1897)

 社会学の最重要古典のひとつです。一見個人的に見える自殺が実は社会的要因に大きく左右されることを統計を駆使して明かした本です。長いですが、とりあえず第二編だけ読めば要点はつかめます。社会を個人を外在的に規定するモノとして観察するのがデュルケム社会学の特色で、実証主義社会学の古典でもあります。

6. エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』東京創元社1951(原著1941)

 最近社会学ではあまり触れられなくなった,ナチズムの精神分析です。ナショナリズム研究にもヒントを与えるでしょう。

7. フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』みすず書房,1998(原著1951)

 なぜ「黒人は白人になりたいと望む」のか(マイノリティはマジョリティに逆らえないのか)を考察する上で重要な本です。ファノンは当時フランス領アルジェリア生まれでフランスに渡った黒人精神分析家。

8. 山本泰「マイノリティと社会の再生産」『社会学評論』第44巻3号,1993年

 下のエスニシティの項目に入れるべき論文でもありますが,アメリカのエスニシティの状況を社会学的に明快に提示しています。なぜ貧困層は中流階層に上がれないのか,といった階層論としても読めます(エスニシティに関連することについてはエスニシティの項目で説明します)。また,本論文が収録されている『社会学評論』の当該号のテーマでもあるミクロ・マクロ連関を考える際の材料にもなります。読み物としても面白く,この短い長さの中で濃い一本となっています(※著者が指導教員だから言っているわけではありません,念のため。むしろ,この論文が指導学生になろうと思った動機の一つです)。

9. 西平直『エリクソンの人間学』東京大学出版会,1993年

 「アイデンティティ」という言葉を普及させたのがエリク・H・エリクソンです。一時期の流行の反動か,最近アイデンティティという概念が馬鹿にされ始めていますが,心理学的な意味でのアイデンティティ概念はまた少し別のものとして考えなければならないかもしれません。本書はエリクソン論ではありますが,エリクソンの理論の概説としても読めます。アイデンティティに関しては第3部だけ読めばよいでしょう。

10. 石川准『アイデンティティ・ゲーム』新評論,1992

 著者は高校のときに全盲となって,その中で東大社会学に進み社会学者となった人で,その経験の生きた社会学でもあるように思います。自らのスティグマ(否定的なレッテル)をどう管理するか,などに始まる劣等感の問題などいろいろと考えるところは多いです。

11. アーヴィング・ゴッフマン『行為と演技―日常生活における自己呈示』誠信書房,1974年(原著1959年)

 相互作用論の重要な古典です。素材は日常でありながら、それを社会学的に考察することがいかに示唆に富むことであるかがわかると思います。原著はThe Presentation of Self in Everyday Lifeで、「ドラマトゥルギー」と呼ばれるゴッフマン独自の社会の見方が反映されています。人は、社会規範に従って自らをよりよく見せようと演技する存在というのが基本的な考え方です。ただ、本書においてはこの社会規範は基本的に与件となっており、いろいろと発展させる余地は残っています。日本語訳は残念ながら絶版です。

12. アーヴィング・ゴッフマン『スティグマの社会学―烙印を押されたアイデンティティ』(改訂版)せりか書房,2001年(原著1968年)

 社会的なスティグマ(烙印)についての古典です。スティグマを持った人はどのようにそのスティグマと付き合っていくのかという戦略について分析されています。ゴッフマンのマイノリティ論はどこか希望が持てるものであるようにも思います。

13. ニクラス・ルーマン『信頼―社会的な複雑性の縮減メカニズム』勁草書房,1990年

 ルーマンの社会理論は非常に難解で,しかも完全に実証的なレベルから離れているために,放置されたり,批判されたりすることが多いのですが,今までの社会理論が看過してきた,言われてみれば当たり前のことをずばりと言っているところは痛快です。勝手にルーマンの社会理論がルーマンの希望する世界の反映だと勘違いする人は(そう勘違いする人は,おそらく自分自身が自らの無根拠な希望的観測を研究に反映しているのでしょう),ルーマンが保守的だと批判するのですが,むしろ現実が左派の思うようになぜ動かないのかを考察するにあたって,社会が何によって保守されているのかを考察しているルーマンの議論は傾聴に値すると思います。本サイトの管理者自身,ルーマンの社会理論全体をしっかりと理解していませんが,その中でも,彼の議論はこれまで自分の実証的な研究に少なからずヒントを与えてくれたと考えています。本書はそんなルーマンの入門に(辛うじて)最適な一冊だと思います(それでも抽象的な話が続くので大変ですが)。後ろにある訳者大庭健,正村俊之両氏による簡潔な解説も参考になります。

 なお、ルーマン理論の解説は日本語でも多くありますが、ある程度現象学的社会学(アルフレッド・シュッツという社会学者が創始者とされる重要な社会学の一派です)をかじったことのある人ならば、土方透「ルーマンのシステム理論と現象学―現象学と社会学の相克」『情況』1998年1・2月合併号(特集・社会学理論の現在:現象学とシステム理論)が、ルーマン理論が既存の社会学・哲学に対してどのような位置にあるのかを分かりやすく提示しており、ルーマン理論理解の一助になると思います(多分;ルーマン理論をろくに理解していないと思われるタワシが言うのもなんですが)。

14. マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波書店(岩波文庫),1989年

 社会学のみならず,社会科学の古典の中で,マルクスと並んで有名なヴェーバーの代表作です。プロテスタンティズムと資本主義の意味連関(因果連関ではなく)を見出した点に本書の重要性がありますが,意味連関と因果連関の分離は,社会(科)学が暫定的でありながら,一定の意味を持った研究を出しやすくする上で重要なものだと言えます。哲学に始まるいわゆる言語論的転回を是とするならば,この意味連関はますます重要性を持つことになるのではないでしょうか。プロテスタンティズムの禁欲の倫理が結果として資本主義的な精神を生み出したという話の筋ですが、それは全く「意図せざる」結果だったという点が、社会学的なものの見方として本書が示唆する重要事項の1つです。

15. 佐藤俊樹『近代・組織・資本主義―日本と西欧における近代の地平』ミネルヴァ書房,1993年

 ヴェーバーの上記の本を有効に発展させた研究と言えます。序章の社会学の方法論に関する議論も有益で,それに基づいてヴェーバーの議論を建設的に再読し,日本の近代を西欧との比較において考察しています。

16. Gerard Delanty and Engin F. Isin (eds.), Handbook of Historical Sociology, Sage, 2003

 さまざまなテーマに関しての歴史社会学の視点を概説した論集で,ボリューム満点です。日本で言う歴史社会学はミシェル・フーコー色が強く,本書のようなマックス・ウェーバー系,アメリカ系の歴史社会学とは違います。前者がミクロ歴史社会学だとしたら後者はマクロ歴史社会学ということになるでしょうか。後者では,チャールズ・ティリーやシーダ・スコッチポル,イマニュエル・ヲーラーステイン,マイケル・マンなどの研究が代表的なものとされています。前者は従来の社会学への懐疑がより強く,後者は比較的古典的な社会学を踏襲していると言えます。

17. カール・マンハイム『イデオロギーとユートピア』中央公論新社(中公クラシックス),2006年(原著1929年)

 本書に代表されるマンハイムの知識社会学は近年の日本の社会学では馬鹿にされることが多くなっていますが,広義での知識がいかに生成したのかを検証するにあたってまず踏まえられなければならない視点であり,彼の議論も,限界はあるものの,当時の社会の分析としては的確な部分も多いのではないかと思います。とりわけ,知識やその基盤が拡散している現代と違い,マンハイムの時代は彼の議論が実際に当てはまりえたという時代性もあるように思います。その意味では,研究対象の時代によっては今でも非常に重要な視角を彼は提供していると言えます。なお,1.の本は,マンハイムの知識社会学を「知識」を人間社会・日常生活全般に関するあらゆるものという定義にして発展させたもの,という位置づけを著者自身がしていますが,マンハイムの議論からすでにそうした部分は示唆されているも言えます。なお,マンハイム自身による知識社会学の整理としては, 「知識社会学」『現代社会学体系8 知識社会学』青木書店,1973年(原著1931年)がいいです。

18. ジョージ・H・ミード『精神・自我・社会』人間の科学社,1995年(原著1934年)

 バーガー+ルックマンの1.の大きな基礎にもなっている社会学(とりわけミクロ社会学)の重要な古典の1つです(1.は,概ね,ミードとデュルケムとマンハイムを,良くも悪くも,折衷したものと言えます)。個人の中の「主我(I)」(自己:はじめからあるものと言うよりは,次の「客我」との関係で蓄積されたものと考えればいいでしょうか)と「客我(me)」(社会を内面化した自己,他者からどう見られるかを気にする自己)の対話を通して個人が社会と繋がり,また自己を形成・維持していくという議論は,程度の差はあれ,多くの社会学が大前提としている理論です。デュルケムの理論は特にそうですが,個人に焦点を当てたミードの理論でも社会は個々人に還元することができず,だからこそ社会の研究には社会学的視点が不可欠であるということがミードの議論は説得的に示しているとも言えます。ちなみに,本書には青木書店から出ている古い方の訳もあるのですが,人間の科学社版の訳者河村望氏が青木訳をこき下ろしたことに始まる両訳者のお若い「論争」が,本書の訳者あとがきも含めて,本書が収録されているデューイ=ミード著作集の中の数巻の訳者あとがきに繰り広げられています(本書の訳者あとがきに河村氏の青木訳批判が載っており,他の巻の訳者あとがきに青木訳の訳者から送られてきた反論の手紙の一部とそれに対する河村氏の応酬が載せられています)。なお、ミード理論の概説としては、船津衛「『自我』の社会学」『岩波講座現代社会学2 自我・主体・アイデンティティ』岩波書店(1995)がわかりやすいです。

19. 佐藤俊樹「言説、権力、社会、そして言葉―「象牙の塔」のバベル」『年報社会学論集』第15号,2002年

 知識社会学と本質的には同じことをしているのにもかかわらず「言説分析」と呼んであたかもパラダイム転換を行ったかのように書く研究が多いこと,学説史に過ぎないにもかかわらず「歴史社会学」と呼ぶこと,著者は日本の社会学に見られるこうした馬鹿らしさに警鐘を鳴らしながら,その上でパラダイム転換を試みています。後半の議論については,著者自身留意しているように試論であって,体系的に整理されているわけではないのですが,少なくとも前半の議論はしっかりと読まれるべきでしょう。公共的な(≒税金を資金源とする)研究は蓄積していくものであって,焼き直して研究者がひと時を楽しむためのものでは決してないことは言うまでもありません。後半の議論は、簡単に言えば、社会学が安易に「社会」なり「権力」なり何か大文字のものを、本当はブラックボックスなのに、あたかも生き生きと存在しているかのように想定してしまってきたことに対する反省です。以下20~21の文献と同じ問題意識を持ったものですが、しかしここで論じられていることを実践するのは至難の業です。「全体性/全域性」を捨て去ってしまうことが、いろいろな意味で難しいからです。ただ、少なくとも、そうした問題意識を持つことで、自らの研究の立ち居地に常に自覚的であるという最低限のことぐらいは、多少なりとも敏感になれるとは思います。その積み重ねで、少しずつ、先行研究をずらしていければ、現実的には上出来なのかもしれません。

20. 佐藤俊樹「閾のありか―言説分析と「実証性」―」同・友枝敏雄編『言説分析の可能性―社会学的方法の迷宮から』東信堂,2006年.

 一つひとつの文に様々な意味が込められているという意味で文学的な論考ですが、「言説分析」が何であるか(というより、何でないか)を考えるには非常に示唆的です。これを読むと、下の21の論考が言っていることもよりよく理解されるでしょう。同時に、実証や近代社会科学とは何であるのかがよく理解されます。実証とはゲームであり、言説分析はゲームではない。これがとりあえずの結論です。

21. 遠藤知巳「言説分析とその困難(改訂版)―全体性/全域性の現在的位相をめぐって」佐藤俊樹・友枝敏雄編『言説分析の可能性―社会学的方法の迷宮から』東信堂,2006年

 以前ここに図式的な整理を書いていましたが、どうもやはりしっくり来ないので消しました。読めば読むほど手が届かないところがかゆくなってくる論文であることは間違いありません。

22. 間山広朗「言説分析のひとつの方向性―いじめ言説の「規則性」に着目して」北澤毅・古賀正義編『質的調査法を学ぶ人のために』世界思想社、2008.

 欲張らない(あらかじめ枠組み、全体といったものを設定しない)言説分析のあり方の一つを提示した論考です。入門書の一章なので、研究としてはそのさわりを提示するにとどまっていますが、ピーター・ウィンチの言にひきつけながら、「規則性を想起させるものとしてのデータ」の一例として、「いじめ自殺」言説を説得的に提示しています。ウィンチによると、社会科学の対象のとらえ方とは、研究者が設定する定義による切り取りではなく、対象の持つ規則性に従ってなされるものです。「近年いじめ自殺が増加した」と近ごろ語られます。これは本当なのか、それとも実態とは別に、単にその事実が人々に意識されやすくなったのか(つまり、昔もいじめ自殺と呼べる現象そのものはあった)、どちらなのでしょうか。「いじめ」と「自殺」というそれぞれの言葉の結びつき方を時代ごとに見ていく著者流の言説分析により明らかとなるのは、そのどちらとも少し違う事態です。いじめが自殺を引き起こすという因果関係図式こそが近年になって人口に膾炙するようになったのです。つまり、いじめだけでは自殺には結びつかない(くわえて恐喝や本人の性格的弱さがなければ自殺には至らない)とする共通了解があった昔日に対して、今日ではいじめが自殺の立派な原因になりうることを人々が自明視するようになったのです。

23. ロバート・K・マートン『社会理論と社会構造』みすず書房,1961年(原著1949年)

 米国の代表的な社会学者の1人マートンによる社会学体系。「中範囲の理論」や「相対的剥奪」など,社会学の重要な概念が散りばめられており,基本的な社会学的視角を得るのに役立ちます。パーソンズらの一般理論を検証不可能な「誇大理論」として,より下位レベルの実証研究と連結しうる「中範囲の理論」の必要性を訴えており,本書全体がそうした内容となっています。

24. Mark S. Granovetter, "The Strength of Weak Ties," American Journal of Sociology 78(6), 1973

 社会資本(ソーシャル・キャピタル)論の古典の1つです(中心的な古典ではないかもしれませんが)。米国における求職活動において,狭くて濃い紐帯よりも広くて薄い紐帯の方が役に立つことが明かされ,そこから弱い紐帯の強さという可能性が指摘されています。下のエスニシティ・ナショナリズム論の項目の<その先>4.の文献を読む上でも重要な示唆を与えてくれます(実際,本論文は4.論文で理論枠では中心的なものとして引用されています)。要するに,弱い紐帯(つながり)の方が無理がなく,また維持のコスト(経済的なものに限らず,いろいろな意味で)がかからないため,結果持続する,というものです。4.の文献が指示しているのも,がっつりとした共生概念を押し込むのではなく,職場などの緩やかな紐帯でもって無理なく平和な秩序を構築していくという方向性です。なお,本人が,その後の反響などをもとにこのテーゼを振り返ったものとしては,"The Strength of Weak Ties: A Network Theory Revisited," Sociological Theory, 1, 1983があります。

25. G・キング他『社会科学のリサーチ・デザイン―定性的研究における科学的推論』勁草書房,2004年(原著1994年)

 何を持って「科学的」とするか,という哲学的著作は多いのですが,実用レベルに体系的に概観した本は社会科学においては意外とありません。統計データ等を駆使した定量的研究であれば,ある程度数学的に見取り図がとりやすく,少なくとも第三者がその研究を科学的であるか否かを判断しやすいのですが,歴史資料を分析した研究や聞き取り調査をもとにした研究などの定性的研究(質的研究)は,研究者のさじ加減次第なのではないかという疑惑が付きまといます。1つは定量的研究者の側からの偏見というのはあるのでしょうが,もう1つは質的研究をやっている研究者自身が「科学的」とは何かをあまり問うことなく研究を進めているため,要するに論理的に怪しい部分があったり,反証可能性が全く排除されていたり,第三者が研究の是非を判断する諸条件の記述がなかったり,といったように,疑われて然るべきものがあるからでもあります。本書は定量的研究においては比較的常識的な手順を定性的研究にどのように反映させるべきかを提示したものです。定性的研究にはもちろん,定量的研究の基準からはどうしても限界がありますが,だからといって,開き直って好き勝手に研究をしていいことにはなりません。また,これは単に面倒であるだけでなく,むしろ,習慣的にいくつかのポイントを抑えながら研究することによって新たな発見をしやすくなるという積極的な結果をもたらすことにも繋がるように思います。

26. 市野川容孝『社会』(シリーズ 思考のフロンティア)岩波書店、2006年

 小中高の社会科の意味での「社会」のタイトルを持った本を除いて、社会科学関連の本で「社会」のタイトルを持った本は、意外というか、当然というか、ほとんどありません(「社会学」「社会科学」「社会主義」といったタイトルの本は非常に多いですが;webcatで検索すると、それらしき本は数冊しか出てきません)。「社会」という言葉が社会学や社会科学の内外で氾濫していながらその言葉の用法について正面から論じられることがほとんどないことの証左でしょう。本書はその「社会」という言葉(より正確には「社会的」という形容詞)の英仏独日における用法について、この言葉の持つ価値(社会(科)学的には「社会」は価値を持たない中立的というか分析上の概念なのですが)を再考するという方向で論じられたものです。したがって、社会学の本でよく出てくるような「社会とは何か」といった問いの次元とは異なった角度から「社会」に焦点があてられています。社会学や社会思想でよく登場する人物を中心に据えつつ彼らの中で「社会」がいかに捉えられてきたかといった内容ですが、彼らに対して著者独自の時に大胆な解釈を織り交ぜながら「社会」という言葉が何を意味し、いかに変遷してきたかが論じられています。そうした中で、社会学がほとんど見てこなかった「社会」とういう言葉の実践におけるある固有の意味が浮かび上がってきます。中心的なものは、たとえば「社会国家(社会的な国家)」というときに意味されるもので、著者は「社会的」という形容詞が、平等への意志と、その実現に向けた他者への気づかいないし連帯を意味していると指摘します。こうした点は、翻って、「社会とは何か」という問題を考える上でも新たな視座を与えてくれます。

 本書は、いわば西欧における概念史を扱ったものですが、日本に目を向けてみると、本書でも触れられているように、「社会」という言葉は、発端としては、明治時代において西欧から輸入されてきた思想に登場する訳語として普及しました。しかし、今日では、本書が扱うような意味を含めて極めて多義的に用いられつつも、基本的には完全に日常語として日本語圏で独自の意味を持つようになっているように思います。日本の社会学者が想定している「社会」の概念は、欧米社会学理論を主に参照しながら「社会とは何か」を説明している社会学の概説書を除いて、今日の日本でなじみのない西欧的な概念ではない、日本での意味体系に沿ったものである可能性はかなりあります。例えば、「社会に出る」という用法は、欧米ではあまりないのではないかと思いますが、この意味での「社会」は日本での日常語の多くの部分を占めているように思います。「社会人」「社会の荒波に揉まれる」「社会の厳しさを知る」「社会を知らない」という時の「社会」は、「社会的な国家」という時の、何らかの慈愛を感じさせる「福祉」に近い意味の「社会」とは対立する、何か「大人(一人前)」なもの、厳しいもの、あたかも自然現象であるかのように存在するもの(つまり、単に個人では社会をどうすることもできないということだけでなく、社会自身も社会をどうすることもできないとまで含意していそうな)としての意味を持っています(例えば英語ではこの意味ではworld、ドイツ語ではWeltを用いるようです)。こうした日本独自の展開は注意すべきですが、「社会的なもの」が人間を画一化するという本書の最後にも触れられているアーレントのテーゼは、こうした日本語の「社会」をある意味で言い当てているのかもしれません。

 なお、本著者は、医療社会学も専門としていますが、同「医療と社会学―社会学史異説」『情況』2000年8月別冊(現代社会学の最前線[3]:実践-空間の社会学 他者・時間・関係の基層から)は、医療というより具体的な事例に即しながら、「社会」という言葉の持った(持つ)意味についてコンパクトに概観する関連文献で、こちらも社会科学全般の構図を考える上で大変示唆に富みます。また、本書では比較的価値を持たせて論じられている「社会」の両義性(たとえば、「社会」への想像力が優生学につながっていく回路)については、同「社会的なものの概念と生命―福祉国家と優生学―」『思想』908号(2000年)がコンパクトにまとまっています。

27. 長谷正人「『社会学』という不自由」『思想地図』Vol. 5(2010).

 上記の市野川氏の議論と対置させて読むと、それぞれがより立体的に見えるのではないかと思います。ちょうど、上でも言及した日本語の「社会人」というときの「社会」をアレントの「社会」観との関連で、やや否定的(必要悪的に)位置づけている議論です。それは、「『社会』とは英雄の登場しない凡庸な人間たちが形作る世界なのだ」という一文に要約されています。では、英雄の登場する「社会」というのは本当にありえないのか。英雄が登場するということは、それは「社会」ではないということになるのか。なかなか面白い問いです。

28. ゲオルク・ジンメル『社会学の根本問題』岩波文庫,1979[原著1917]

 社会学の三大巨匠の1人(他はM・ヴェーバー、E・デュルケム)であるジンメルです。他の2人に比べて引用回数は少ないのですが(とりわけ、ヴェーバーは政治学など社会科学全般で、デュルケムは人類学での古典にもなっているのに対して、ジンメルは哲学にも関連するものの古典として重要視されるのは主に社会学という事情もあるのですが)、一般的にはゴッフマンなどに繋がる相互作用論の源流にあり、理論的な構図はジンメルがすでに大部分を打ち立てたと言えます。多分、ルーマンのシステム理論に通じるところも多々あり、ルーマンの方がより体系的で、計算づくされているのですが、あまりに緻密で、それに見合う実証が追いつかないのが現状のように思います。つまり、実証の精度からするとジンメル理論でも十分である場合も多いのではないかと思います。本書は本文100頁少々ですが、個人にも、全体としての社会にも還元できない、ジンメルの言う意味での社会学の対象たる社会の形式に特化した視座が明らかにされています。日本語では二巻本の『社会学』が、より詳細な発展編として位置づけられるもので、これは分量が多いですが、目に留まった章や節だけを読んでも、社会学的な視角の何たるかを多く教えられます。

29. Amos Morris-Reich, "Circumventions and Confrontations: Georg Simmel, Franz Boas and Arthur Ruppin and Their Responses to Antisemitism," Patterns of Prejudice, 44(2), 2010, 195-215.

 世紀転換期のドイツにおける3人のユダヤ系社会学者(人類学者)の理論と反ユダヤ主義との関係を論じた論文です。社会学史の分野では国ごとに(ドイツ社会学、フランス社会学、といったように)テーマが決まっているのが通例ですが、ユダヤ社会学、といった線の引き方も可能だとワタクシは個人的には考えています(社会学の4大巨匠といわれる、マルクス、デュルケム、ウェーバー、ジンメルのうち3人がユダヤ人です)。この論文はそのことを示唆しているともいえます。ジンメルとボアスは、一見個人的にも業績上もユダヤ色がほとんどなく、反ユダヤ主義をテーマにすることもなかったのですが、「迂回」することで反ユダヤ主義を相対化しようとしていたというのが著者の見解です。ジンメルの場合は、社会を個々人の相互作用と見ることで、人種やユダヤ人といったものをそうした相互作用の産物として、また、反ユダヤ主義を何か特別なものというのではなく偏見の一種として、脱本質化して見せます。ボアスは、人類学者として、人種的で不変の特性とされてきたものについて、ユダヤ人に関するものに限らず、事実をもって反論していきます。また、彼は西欧の学問が、はじめに西欧の優位性ありきで物事を見ていることに批判的で、当然それは、ヨーロッパの中の野蛮と見られてきたユダヤ人に対する見方に再考を促す志向性も含んでいたわけです。ボアスは、主にアメリカで学者生活を送りましたが、彼の教え子の一人に『菊と刀』で有名な、かのルース・ベネディクトがいます。西洋の価値観・基準で切るのではなく、日本に固有の価値観を見いだそうとした彼女の視線の背後にボアスがいたともいえそうです。エスニシティ・ナショナリズム論の項目でも紹介していますが、人種主義についても彼女は批判的に論じています。最後のルッピンはユダヤ史においてはシオニスト・バイナショナリストとしても有名な、ユダヤ人に関する社会学的・統計学的研究の先駆者です。彼は正面から反ユダヤ主義を取り上げ、他の2者と比べてそれをより特殊視していたとのことで、著者は他の2者と彼をかなり区別しています。ただ、ルッピンも登場する同様の主題のMitchell Hart, Social Science and the Politics of Modern Jewish Identity, 2000で読んだ印象では、ルッピンも、大枠では(といっても社会科学者だったということよりも細かい点で)似たようなまなざしを持っていたともいえる気もします。なお、Patterns of Prejudice誌は、たぶん日本ではマイナーですが、反ユダヤ主義に関する論考をよく掲載する、エスニシティ研究の老舗です。

30. 多田光宏「存在から生成へ―ゲオルク・ジンメルと社会システムの存在論のための予備的考察―」『ジンメル研究会会報』16、2011.

 デュルケムの方法論的集合主義にしろ、ヴェーバーの同個人主義にしろ、どうしても社会(社会システム)は空間として捉えられがちです。それに対して、ジンメルにとっての社会のカギは相互作用です。それ自体としては社会学で常識であるこのことを前半で確認しつつ、後半は社会システム理論に関連づけながら、それを空間ではなく時間としてとらえようというものです。これは、20世紀前半の「社会」のイメージにある部分で合致しているように思います。その点、結論部で言及されているベルクソンの生の哲学へのジンメルの共鳴は非常に示唆深いものがあります。

31.John T. Jost and Biana Burgess, “Attitudinal Ambivalence and the Conflict Between Group and System Justification Motives in Low Status Groups,” Personality and Social Psychology Bulletin 26(3), 293-305, 2000.

 社会のなかで地位が高い集団は内集団びいきをするのに対して、低地位集団は外集団びいき(ないし内集団へのためらい)を示す傾向があることはつとに知られてきました。社会心理学の論文ですが、本論文は、そうした研究動向を整理して大学生を使った実験でそのことを再確認しながら、もう一つの興味深い知見を提示しています。System Justificationとは、現状を肯定するために、現状が成立している構造ないしシステム自体も是認してしまうという傾向です。そうした傾向を示した人ほど、低地位集団の場合は内集団に対してためらいの感情を持つそうです。

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