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『イスラエルの起源』訂正・補足

上記拙著に含まれる誤りや不適切な表現等について、こちらで訂正します。確認不足とご不便をお詫びいたします。その他お気づきの点はお手数をおかけいたしますが、メール等でぜひお知らせください。

p. 118(Kindle 1413/3671)の二月革命についての次の記述(第3刷まで;第4刷から訂正されます)

誤:ここにツァーリ体制は打倒され、リベラリストとボリシェヴィキを含む社会主義者が連立を組んで臨時政府が立ち上げられることになった。

正:ここにツァーリ体制は打倒され、リベラリストを中心として、社会主義者からも一定の支持を得た臨時政府が立ち上げられることになった。

<説明>文脈としては、リベラリストと社会主義者がある程度共存した二月革命の体制と、それをボリシェヴィキが転覆した十月革命を対比させるというところですが、「連立」というのは勇み足でした。まず押さえるべきは、二月革命で国会(ドゥーマ)では、カデット(立憲民主党)を中心とした臨時委員会が臨時政府を設置したのに対して、労働者と兵士が組織したソヴィエト(「会議」の意で、革命運動の中心的存在として各地に設置され、首都ペトログラードではまとまったものが作られた)のほうが民衆の支持を集め、むしろ実権を握っていたといういわゆる二重権力状態があったということです。ペトログラード・ソヴィエトの副議長でもあったエスエル(社会主義者・革命家党)のA・ケレンスキーも臨時政府には入閣し、その後さらに社会主義者が入閣することがあったことや、当初はボリシェヴィキも臨時政府に協調的だったことなど、社会主義者が総じて臨時政府と連携したり歩調を合わせたりしていた局面は確かにありました。しかし、拙著でも言及しているように第一次大戦をめぐる意見の対立をはじめとして、次第に足並みの乱れも目立つようになり、特にボリシェヴィキは4月の時点で臨時政府への不信任を示していた(レーニンの「四月テーゼ」)ことなどを勘案すると、比喩的にも「連立」とは言えません。4月からはさらに多くの社会主義者が入閣(メンシェヴィキも含む)したため、「連立感」は強くなり、実際に「連立政府」と言われることもありますが、ボリシェヴィキは含まれていませんので、その意味で取っても「ボリシェヴィキを含む」は明確な誤記となります。なお、二月革命体制について最新の研究状況が反映された概説としては、池田嘉郎『ロシア革命:破局の8か月』岩波書店が挙げられます。

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