© 2018  Taro Tsurumi

【その他】 以上に含まれない分野で,以上のいずれかの分野に関連する文献についての紹介です。

ユダヤ教 中東・イスラーム関係 日本近代史 被差別部落史 歴史学方法論 国際関係 平易な哲学 平易な心理学 時事評論

 

<ユダヤ教>

1. 手島勲矢編『わかるユダヤ学』日本実業出版社,2002年.

 ユダヤ史の項目でも触れましたが、一番とっつきやすいと思います。

2. モリス・アドラー『タルムードの世界』ミルトス,1991[1963]年.

 タルムードは難解である、とよく言われますが、初学者にとっては、タルムードがそもそもユダヤ教においてどのような位置づけにあるのかもタルムードに関する簡単な説明を見ただけではよく分かりません。ユダヤ史やラビ・ユダヤ教の文脈で平易にその経緯と内容を解説したものが本書です。

3. Edward Kessler, What Do Jews Believe?: The Customs and Culture of Modern Judaism, NY: Walker Publishing, 2007.

 ユダヤ教は、イスラーム同様に、生活や人生全般にわたる体系です。ユダヤ教をそうしたものとしてイメージする上で、本文100頁に満たない本書は分かりやすいと思います。ただ、ちらほら出てくるシオニズムやイスラエルに関する記述は、シオニストのそれに近い感じで、正統派ユダヤ教からしたら違和感があるかもしれませんが、今日のユダヤ人の平均的な見方ということで言えば、まあこんなもんなのかもしれません。

 

<中東・イスラーム関係>

1. 片倉もとこ『イスラームの日常世界』岩波書店(岩波新書),1991年

 人類学者による日常に根ざしたイスラームの紹介です。イスラームの教義やクルアーン(コーラン)の内容を解説したイスラーム入門書が多い中,本書は一般民衆の視点からのイスラームが紹介されています。「護教論的」と感じられる面もなくはないですが,一般に非イスラーム世界に流通しているイスラームに対する悪い印象から別の視点(イスラームの積極的側面)に目をやるにはこれぐらいの書き方をしなければならないということなのかもしれません。ということで,イスラーム世界についても非イスラーム世界についてもある意味単純化している部分が多いのですが,それは新書ということで,研究書ではないので目くじらを立てることでもないでしょう。いずれにしても,あ,イスラームにはこういう側面があるんだ,とイスラームの積極的側面を考察するきっかけになりますし、「宗教」がえてして狭く、否定的に捉えられがちな日本語世界ですが、もっと広範で緩い「宗教」というのもあるのだということが感じられると思います。

2. 藤波伸嘉『オスマン帝国と立憲政―青年トルコ革命における政治、宗教、共同体』名古屋大学出版会、2011.

 オスマン帝国崩壊前の約10年間に関して、オスマン語、ギリシア語、アラビア語、フランス語等の史料を駆使し、理論的にも刺激的な議論を展開している本です。本書から浮かび上がるのは、オスマン帝国の立憲政は、その不完全さゆえではなく、むしろそれが一定程度機能したからこそ、列強の外圧という条件と掛け合わさって崩壊に向かったということです。その構成諸民族は、結果からの推察されることとは異なり、むしろ帝国の枠組みを前提とすることも多かったようです。この点、当時の諸帝国全般を考えるうえでも示唆に富む本です。通例「イスラーム帝国」とされるオスマン帝国のギリシア正教会・教徒の動向を主軸に据える点も、立憲政という超宗教的枠組みの機能を考察する本書の説得性を高めています。

 

<日本近代史>

 

<被差別部落史>

1. 角岡伸彦『はじめての部落問題』文春新書,2005年.

 被差別部落(同和地区)出身の部落問題ジャーナリストによる部落問題の入門書です。著者自身に特に辛らつな差別経験がないからか、軽いタッチで書かれており、かつ、様々な側面を提示しています。

2. 山下力『被差別部落のわが半生』平凡社新書,2004年.

 1の著者より1世代年上(1941年生まれ)の、奈良県議会議員経験のある著者(大阪生まれ)の半生を綴ったものです。差別糾弾が勢いあまって、あるいは、受けて側に受け取るだけの素養がなかったりして、「同和はこわい」という新たな偏見が生まれたりもするわけですが、その辺の事情について、部落の側からの視点、彼らの想いや葛藤などが著者の経験に即して書かれています。

3. 黒川みどり『異化と同化の間―被差別部落認識の軌跡』青木書店、1999.

 被差別部落外の視線と、それに対する被差別部落の側の様々な対応についての歴史を論じたもので、ユダヤ史を考えるうえでも示唆的です。

4. 今西一『文明開化と差別』吉川弘文館、2001.

 本書で明かされている、近代化による秩序の変動により、社会的位置づけを失い、それがさらに差別に拍車をかけるという構造は、近代化とは何かを考えるうえで重要な問題であると思います。

 

<歴史学方法論>

1. 小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004.

 いわゆる言語論的展開以降、足元を大きく揺るがされている学問の一つが歴史学です。本書が控えめながら提起するのは、「コミュニケーショナルに正しい認識」を目標とすることです。それを平たく言えば、複数の人々が議論を重ねながら認識を細緻化するという、学問としては至極当然で健全な姿勢ですが、「自分が書きたい歴史を書く」という欲求を抑えきれない学者は必ずしも少なくありません。しかし、それこそが、歴史小説と歴史学を絶対的に分けるものであり、アタクシもこのことは強く意識したいと思います。

 

<国際関係>

 

<平易な哲学> (平易な時点で哲学失格かもしれませんが。。。)

1. 伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』ちくま新書,2005年.

 哲学はそもそも実用性を目的とする営みではありませんが、本書は、その哲学の成果を実用に生かすという意味で、哲学以外の専門の人にはありがたい本です。最近書店でよく見る「クリティカル・シンキング」を意識したものですが、その中では最も哲学寄りのようです(デカルトなんかも出てきます)。新書なのでそれほど難しいことが書かれているわけではなく、むしろ文系研究者ならこれぐらいのことは分かっていて、かつ実践できていなければならないことなのですが、自分も含めて、結構できていないことがあると思うので、自己点検のためにもさらっと読んでみるといいと思います。哲学は実際に接近可能か、実証可能かを差し置いてとにかく原理主義を押し通す営みですが、現実的な落としどころをどのように哲学的に考えるか(単なる緩い妥協ではなく)というところにも目を配っているところが類書にはあまりない本書の利点なのだと思います。実証畑の人も、理論的に詰められるところは可能な限り詰めるべきだと思いますので。

2. 貫成人『哲学マップ』ちくま新書,2004年.

 もうひとつちくま新書の平易な概説書です。哲学・思想以外の専門の人の場合、たまに読んでいる文献に出てくる哲学者や概念が哲学全体の中でどのような位置にあるのかをざっくり知りたいという欲望に駆られることが少なくないのではないかと思います。本書は書名のとおり、西洋哲学を中心に、程よく教科書的に分かりやすく概説がされています。最後の方に申し訳程度に東洋思想の章が設けられ、まさに申し訳程度のことしか書かれていないのですが、最後に西洋哲学のマッピングを行う上で、なかなかいい味を出しています。それにしても、この手の本は、読んでいるときは、なるほどーと納得しながら分かったつもりになっていけるのですが、読んだそばから内容を忘れてしまうのはタワシだけではないのではないでしょうか。哲学はきわめて抽象的な議論であるためにイメージとしてそもそも残りにくいのですが、ましてそれをさらっと苦労なく読んでしまうのでなおさら脳みそに染み付かない、ということなのかもしれません。

3. 思想の科学研究会編『新版 哲学・論理用語辞典』三一書房、1995年.

 若干古いですが、伝統的な哲学・論理学の用語を、厳密にはいいから、ざっくりと知りたい、というときにもってこいです。それを目的に作られた辞典というのはそうありません。残念ながらざっくりとした説明では余計によくわからない用語というのもあるのですが、やはり、意味を大きく外して覚えてしまうということは避けたいので、とりあえず、用語の大体の守備範囲を知ると、さしあたり安心します。

4. 金森修『ベルクソン―人は過去の奴隷なのだろうか』NHK出版、2003年.

 一般に「生の哲学」の源流に位置づけられるパリ生まれの哲学者の哲学についての小著です。19世紀は実証主義が隆盛化した時代ですが、著者によると、ベルクソンは実証主義の有効性は認めながらも、それからこぼれおちるもの、あるいはそれではつかみ取れないものを探求しようとしました。現在に至るまで、実証主義的な物言いは非常に説得力を持つばかりか、我々の認識を強く規定し、それから逃れる想像力も持ちにくくしています。しかし、それに飽き足らない流れというのが、19 世紀終わりから20世紀初頭、哲学に限らず、ヨーロッパ社会全般に一定程度の場所を占めていたように思います。現在からすると、その流れに属していながら、ロマン主義への逆戻りとして簡単に片づけられているものももしかしたら少なくないかもしれません。本書の文体は、類書では異例なほど明らかな「上から目線」で、イラっととする読者もいるかもしれませんが、たぶんそれは著者ができるだけ平易に語ろうとした結果なのだと思います。実際、非常に分かりやすく、また印象にも残りやすいです。

5. Stephen Jay Gould, "The Jurassic According to Hollywood," in Mark C. Carnes (ed.), Past Imperfect, New York: Henry Holt and Company, 1995 (reprinted in 東京大学教養学部英語部会編,The Expanding Universe of English II,東京大学出版会,2000).

 英語の勉強に、と読んでいた読本に入っていたエッセーです。ハリウッド映画『ジュラシックパーク』に生物学者がケチをつけるという内容です。ハリウッド映画は娯楽映画なので、むやみやたらと専門的観点から批判することに意味はあまりないことが多いですが、この論考はなかなか我々の科学観に関しての本質を突いています。たとえば、良質な全体の一部を取り出して移植すれば、再び良質な全体が出来上がる気がする、という我々の感覚は、生物が複雑性の中で成立していることを看過しています。要は、良質な全体というのは、部品一つ一つは、それだけ取り出すとまったくの不良品同士が微妙なバランスと打ち消しあいや「化学変化」で、結果としてよいものを作り出しているということもあるでしょう。恐竜のDNAさえ手に入れば(そもそもDNAはそんな長年保存されるものではないそうですが)恐竜が出来上がる気がするというのは、こうした生物の複雑性をまったく無視した貧困な想像力だそうです。

6. Richard Osborne and Dan Strugis, Art Theory for Beginners, Hanover: Steerforth Press, 2006.

 美術理論に関する入門書ですが、美術を通して、ロマン主義とは何か、近代主義とは何か、ポストモダンとは…といった哲学の基本的な事柄に関してイメージをつかむことができます。ただ、本書のイラストはあまりうまいと思いません…

 

 

<平易な心理学>

1. R・ドライカース『アドラー心理学の基礎』一光社、1996(原著1989).

 社会科学ではまず登場しませんが、アルフレート・アドラーは初期のころはフロイトとともに研究を行っていたオーストリア・ユダヤ人の精神分析家です。フロイトがエディプス・コンプレックスを唱えたのに対して、アドラーは劣等コンプレックスを人の心理の基底として主張し、この点が彼とフロイトを実際の付き合いの上でも分かつ分岐点でした。学部のころですが、なるほどー、と人間や社会(ミクロ社会)のことが少しわかったような気がしました。実際のところどうなのかよくわかりませんが。ただ、ニーチェやM・シェーラーの「ルサンチマン」概念とは通じ合う部分が幾分かあるように思いました。

 

<時事評論>

1. 古市憲寿「リーダーなんていらない」『新潮45』2012.3

 古市氏は大学院の後輩にあたるのですが(ほとんどお目にかかったことはないですが)、かなり若くして最近引っ張りだこでいろいろなところに登場しています。で、何も読まないうちから、なんとなく、僻み交じりの偏見でちゃらちゃらした感じで、これだから最近の若者は(数歳しか違いませんが)、などと勝手に訝しく見ていたのですが、この論考は一本取られました。確かにそうだ、と思うところが多かったですし、それが古市さんが著書で提示しているという(すいません、まだ読んでいないので又聞きです)「身の回りの小さな幸せ」に満足する若者像とつながっていくのもうなずけました(むろん、そうした種類の若者がよいのか悪いのかは難しい問題ですが、しかし事実として、そうした感覚の若者は増えているのだと思います)。リーダーを待望することの愚かさなど、いわれてみれば当然のことだともいえるのですが、それを単に宗教的感覚として一蹴するのではなく、現在のめまぐるしさという状況との関連で無効化している点が、軽快でかつ説得的です。書店には相変わらず強いリーダーシップ賞賛本があふれていますが、いろいろな意味で考え直さないといけませんね。これまでの論壇は、概していえば、個人か国家かという軸(前者重視が『世界』、後者が『諸君!』や『正論』)で議論が進んでいたのですが、彼の議論はそれと体系的に異なる地平に立っていて、そこが新世代として注目されているのでしょう。もちろん、論壇誌ですので、彼の印象論にすぎないわけですが、なかなか馬鹿にできないものがあると思いました。二次文献としてはもとより、一次文献としても。

2. 宮台真司「脱原発が陥りがちな罠にご注意を!」(宮台氏のブログより)http://www.miyadai.com/index.php?itemid=947

 この議論は脱原発を当然とするうえでなされたもので、脱原発の方向性を揶揄するものでは決してありません。が、その過程で提示される社会分析は、ある意味、上記古市氏に通じるところもあるので、伝統的な反原発思想とは世界観が異なっているかもしれません。日本社会全般を考えるうえでいろいろ示唆に富む論考で、文系含め、研究者も心当たりのあることが多いのではないかと思います。こういうまとめ方をするとせっかくの論考を安っぽく見せてしまうかもしれませんが、要するに、東電一つ(とせいぜい「原子力ムラ」)を叩いて気がすんでいる人は、第二の原発事故「級」の事故にまっしぐらだということです。「原発をやめられない社会」とはいかなる社会か――この問いと、「ライフスタイル」ではなく「ソーシャルスタイル」としての「スローフード」の話を絡めるあたり、大変刺激的でかつ説得的です。

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