大学院進学を考えている方へ

私に関係する分野(歴史社会学・ユダヤ学・ロシア・東欧・中東研究)全般にかかわる情報と、私の研究室をご検討されている方への情報です。

大学院について

<文系大学院に進学するメリット・デメリット>

研究者や専門職を目指すうえでは、大学院進学は必須です。特に研究者の場合は博士後期課程(なお、修士課程の別名は博士前期課程です。博士後期課程のことを単に博士課程と呼ぶこともあります)まで進んで、博士号を取得しなければなりません。かつての日本であれば、博士号がなくても大学で研究職を得られることもありましたが、現在では著しく不利になります。

国連や国際NGOなどの国際機関でも修士号はもちろんのこと、博士号が要求される場合もあります。しかし、日本の企業では、残念ながら文系の教育に対する理解が不足している傾向があり、ましてや大学院については十分に認識されていないため、修士号はマイナスにはならないまでも、さほどプラスにもならないようです(一応修士修了者のほうが初任給は高い場合が多いですが)。もっとも、コンサルなど、一部の業種は修士号があるほうが有利な場合もあります。ただ、博士課程まで進んでしまうと、現状、採用してくれる企業はかなり限られます。

したがって、単に大手企業に就職さえできれば御の字、という方針であれば、大学院に進むことはあまり得策ではありません。あくまでも、大学院まで勉強を続けてこそ得られるものに関心があるかどうかにかかってきます。

修士を出て就職するにせよ、博士まで進んで研究職を目指すにせよ、人生をどうするか、社会とどのようにつながるか、という抽象的な次元でいえば、文系の大学院に進学するメリットは無限にあります。通り一遍に言えば、人間がわかっているつもりであまりわかっていない人間自身や社会についてよりよく知り、そのことを通して人生や社会をより豊かに、あるいは少しでもマシにしていくための知見を得る、というものです。別の言い方をすると、自分なりに社会とどのように、またどのような社会とつながっていくか、そして世界というものをどのように捉えるかについて、経済合理性や巷の価値観とは離れたところで、落ち着いてじっくりと考え、探求することができる数少ない機会が得られるのだと思います。

 

新しい研究を打ち出すためにはもちろん、民間企業や官公庁、政治や文化の世界などで根本的に新しい価値や価値観を生み出すうえでも、こうした訓練は不可欠なはずです。「スーパー〇〇」とか「〇〇活躍」とか「〇〇改革」などと言葉ばかり躍らせても大して何も変わらないのは、既製品を根本的に変えることなく、また、そもそも何が既製品なのかもよくわからないまま、それを上塗りするだけだからです。

 

 <大学院とはどのようなところか・どのように過ごすべきか>

 日本の文系の大学院(特に総合文化研究科はそうなのですが)は、基本的には自分で勝手に勉強するところです。ぼーっとしているだけではいつの間にか2年目の夏前の修論中間発表会、ということになってしまいます。指導教員の側から定期的に面談を設定することは一切ありませんので、機が熟した、あるいは行き詰まった、と思ったときに自分から面談を設定します。あとは、ゼミにいくつか出て自分の発表もしつつ、ペースをつかんでいきます。学会や研究会の情報も自分で集め、必要だと思えば自分で勝手に参加します。大学院以降は、大学内よりも大学外(他の大学の同分野の研究者)のつながりのほうが重要になってきます。

つまりは、修士論文・博士論文まで、何の強制がなくても自分一人でコツコツと、来る日も来る日も勉強できるかどうかに、ほとんどすべてがかかっています。

もっとも、これは必ずしもガリ勉にしかできない忍耐一筋の道というわけではありません。一つに、苦手な科目も、興味のない単元も、みっちり満遍なくやらなければならない大学受験の勉強と違って、大学以降の勉強は、進めば進むほど、好きなことを中心に勉強すればいいという点で大きく異なります。もちろん、「を中心に」ですので、それを達成するための基礎体力である語学は地道にやらないといけないとか、狭い専門だけでなく、なるべく広く勉強したほうがいいとかいうのはありますが、やはり自分の研究が積み重なっていく実感があるので、モチベーションが違います。

もう一つ、モチベーションということでは、自分をいかにうまく乗せるかということについて、高校生と比べると、より具体的に工夫しやすいと思います。自分の研究が何につながっていくかのイメージが持ちやすいからです。受験勉強は、せいぜい「グローバル化の時代、英語はできたほうがいい」とか「数学はいろいろなものの基礎になるらしい」とか、「とにかく偏差値が上がればいい大学に合格して達成感が得られる」とか、漠然とした、精神論的なモチベーションしか持ちにくいわけですが、研究は、直接ではないにせよ、社会の様々な部分とのつながりが見えるものです。門外漢からは「それ何の役に立つの」的なテーマでも、やっているほうからしたら人類への貢献が(潜在的には)半端なかったりします。

このとき、大学院がどのようなところであるのか、ということが改めてポイントになります。学部も多かれ少なかれそうですが、大学院というのは本来、狭い意味での自分自身の興味を満たすだけの場ではありません。どのような範囲でもいいのですが、自分自身や「お友達」を超えた範囲に何らかのよい影響を与えられるかどうか、というのが試される場です。つまり、多少なりとも公共的なものを意識しなければなりません。

私自身の場合は、論理の戯れのようなものが面白くて学問の世界に惹かれた面もありますが、同時に、昔から漠然と世界平和に貢献したいという想いもあり、学問はそれに関わることができる営みだと考えたことも決め手になりました。私の研究テーマの中心にあるパレスチナ/イスラエルの紛争は、解決の糸口もなかなか見えない難しい問題ですが、せめて人類の今後のために、また、できれば当該地域の状況改善に少しでもつなげるために、その経緯をしっかり検証していくことが必要だと強く思ってきました。

社会とのつながりのなかで自分を位置づけることができれば、(たとえすぐにはそのことを社会から承認してもらえなくても)それは重要なモチベーションになります。人間は社会的な生き物ですので、それはオマケ的なものではなく、本質的なものだと思います。つまり、自分が好きなことをやることに加えて公共的なことを考えるというのは、決して負担の純増なのではなく、自分を豊かにし、研究自体も深めていくことなのではないでしょうか。

文系、特に人文学寄りの院生・研究者は、基本的に個人事業主です。大学や学会は商店会のようなもので、いろいろと情報を回してくれたり、ちょっとしたことを融通してくれたりはしますが、事業が傾いても根本的には何もしてもらえません。つまり、卵の時代からその道の大家の段階に至るまで、文系研究者は常に自分自身が自分の部下でもあり上司でもあります。どちらの声にも平等に耳を傾けつつ、潰れずかつ怠けないよう自分をうまくコントロールしていく必要があります。モチベーションのチャンネルが複数あれば、それだけコントロールはしやすくなります。ある部分が行き詰まっても、別の部分に当面は引っ張って行ってもらえるからです。

大学院に進むには

<大学院の選定>

大学院の場合は、大学名や研究科名で選ぶよりも、自分がやりたい分野の研究者がいるかどうか、自分がやりたい研究が伸び伸びとできそうかどうか、その他関連するリソースはあるかどうか、といった観点から選びます。ただし、ある程度名のある大学のほうが、有能で刺激的な院生仲間に恵まれる可能性は高くなります。

経済的な支援体制についても、大学によってまちまちで、国公立は授業料は安いですが、私立でも、いくつか条件をクリアすれば、国公立よりも低コストになる場合もあります。

自分の研究テーマにぴったりな教員がいない場合も少なくないでしょう。私はそうでした。その場合は、大学院の枠組みが大枠で自分の方向性と一致しているかどうか、また、分野という点では重なる(つまり、専門的な指導はできなくてもある程度受け入れてくれそうな)教員がいるかどうかで判断することになります。専門として掲げられている看板だけを見るのではなく、その人の著作もいくつか読んでみることをお勧めします。専門が近くてもあまり面白くないと思ったり、ほとんどよくわからなかったりする場合は、相性はよくないかもしれません。逆に、多少専門がずれていても、面白いと思えば、何かしら得るものがあると思います。

<入試の準備>

文系大学院の場合、まずは語学がポイントになります。特に英語の場合、たとえ日本研究などで研究そのものではほとんど使わなくても英語で発信する機会は少なくない(発信したほうがよい)ので、この機会にみっちり鍛えておいて損はないです。また、語学習得は若いほど有利ですので、その意味でも「今でしょ」となります。2言語必要な入試もありますが、学部の段階で第2外国語もめちゃくちゃできるという人はかなり限られますから(また大学院に進むとも限りません)、それほど悲観する必要はないです。

専門科目については、多様な専門があるなかで共通する部分を問うことになりますので、専門がある程度明確な大学院であっても、それなりに幅広い知識と視野が求められます。過去四半世紀ぐらいのスパンのなかで近隣の領域も含む広い範囲で注目されてきたいくつかのテーマについて、普段からアンテナを張って乱読しておくとよいと思います。

また、専門科目はB4サイズぐらいの解答用紙1~2枚の論述問題が主流ですので、文章表現力がカギを握ります。冬に試験をする大学院では、卒論も審査対象になりますし、いうまでもなく、大学院以降は論文の出来がキャリアを大きく左右していきますので、語学同様、今のうちにしっかり磨いておくといいです。学術論文のポイントは、論理の積み重ねが着実になされていることを明快に提示できるかどうかです。つまり、論理的思考力・表現力がモノを言います。

英語力と論理的思考力の両方を同時に身に着けるうえで、私が今でも「やっててよかった公文式」と思うのは伊藤和夫『英文解釈教室』(研究社)です(公文式はやったことはありません)。かなりハイレベルな英文も含まれていて、これがこなせればどのような英文も読めるようになりますので、大学受験時代にやらなかった方は、ぜひ完読して、論理的な文章そのものである解説をしっかり読んでみてください。

<経済的な問題>

大学院に進むにあたって、少なくとも修士の2年間の学費や生活費をどうするかという問題があります。学部までは親に出してもらうのが当然という風潮があり、わが子の大学進学を望む多くの親がそのつもりにしていますが、大学院は、特に文系の場合、そうとも限りません。ましてや学部時代から親に頼れない人はなおさら大変です。

日本は特に修士課程に関する支援は学部同様に少なく、研究者や高度人材を養成するための経費を公に負担するという意識が社会全体として弱いように思います。大学院によっては、修士の段階で優秀な院生に授業料を超える額の支援をする場合がありますが、数はかなり限られ、初めからあてにできるものではありません。

博士後期課程まで行くと、これも上位2-3割のみになりますが、日本学術振興会(通称「学振」)というところの特別研究員というのに採用されると、大学院で博士論文の準備をしながら最大3年間月額20万円がもらえるという制度があります。海外に短期・長期滞在する助成なども、博士後期課程になるといくつか選択肢が出てきます(修士課程でも国費交換留学制度はありますが)。

ですので、修士の2年間については、自力で何とかすることを考えておく必要があります。親をあてにできる場合はするといいと思いますが、できない/しない場合は、学部のうちに社会勉強を兼ねてバイトに精を出すことになるでしょう。学生支援機構の奨学金は、学部より若干額が上がります。成績優秀であれば返済免除となります。

私の場合は学部の時に、3年間、中学生の進学塾の講師とマックのバイトを掛け持ちして、最大週5(塾は平日は夜だけですが)で働いて修士の費用を貯めました。部活も週3ぐらいでできていましたし、学術書を読む時間はかなり確保できていましたので(その代わり必修の授業はサボることが多く成績は割とギリギリでした)、バイト三昧という印象はないです。

もっとも、私は修士2年間は下宿で、また学部時代から中古が大半とはいえかなり本を買っており、修士では学生支援機構のお世話になりつつもバイトを一切しなかったので、このぐらいの額が必要だったということです。実家に居候し、本は極力図書館で済ませるならば、最低限の書籍代・コピー代などを勘案して、国公立なら150万円ぐらい貯めておけばとりあえずは大丈夫ではないでしょうか。もちろん多少ならバイトをすることもできると思います。

いずれにしても、上記バイトは、それぞれお金以外の面でも「やっててよかった」と思います。10-20人を相手に教える塾講師については、大学で教える場合や学会発表する場合に、人に対してわかりやすくハキハキと伝える技術を身に着けるうえで大変役立ちました。今考えればいろいろとずいぶん常識がない独善的な人間だったと思いますが、忍耐強い社員さんと同僚の方々のおかげで、多少はマシになれたと思っています(え、それで?というご批判、甘んじて受け入れる所存でありますが、今でも大変感謝しているところです)。マックについては、土日の昼ピークに入ることが多かったので、小さい店舗だったこともあって、かなり手際よくやらないと回らない状況のなかで、無駄なく効率的に動く鍛錬になったように思います。仕事全般に関係してきますし、日常生活でも、料理をする際にキッチンを効率的に回す作法が身についたと実感しています。

鶴見研究室について

・人文学寄りの文系の場合は、「○○研究室」というほど大層なものではないのですが、要は私と一緒に勉強したいというハイセンスな持ち主は、どなたでも歓迎いたします。当然ながら、出身大学等、研究の内容以外のあらゆることは一切問いません。

​・受験に当たって、特に事前に相談する必要はありませんが、質問があればお気軽にメールしてください。他の大学の方であっても適宜面談いたします。

・総合文化(≒駒場)の文系の研究室はどこもそうだと思いますが、基本的に教員も学生もそれぞれ勝手に自分のテーマをコツコツと進め、互いにあまり干渉しないというスタイルです。もちろん、面談やゼミの場では率直なコメントをしますが、それにどう応えるかは自由です。面談は特にこちらからは声をかけませんので、必要に応じて設定してください。

・これも駒場の少なくとも文系の教員の場合は現在では誰しもそうだと思いますが、恒常的に教員の研究につき合わせるということはありません。数年に1度国際会議を開催しますが、当日の会場運営と、直前に集中する招聘者の空港出迎え(私もします)に1~2名バイトしていただくものの(あと、ユダヤ教の食物規程に沿った弁当配達を探してもらいました)、それ以外にお手伝いいただくことはありません。教員からの頼みは断りにくいだろうという前提のもと(もちろん断っていただいてまったく構わないのですが)、極力学生の状況を見てお願いするようにしています。招聘者や事務とのやり取りはすべて私だけで十分に回る範囲でやっています。ただし、マイクロ資料のコピーを2日ほど1人の方にバイトしていただいたことが1度ありました。そういうことはないように頑張ります。

・その代わり、指導学生のために発表の場を提供することも考えていませんので、各自、自分が最適だと考える学会等に積極的に応募してください。それ自体が大事な勉強だと考えています。草稿や助成等の申請書もちろん見ますし推薦書も喜んで書きますが、それ以上のお世話はしないほうがいいと考えています。

・私が指導教員になることができるのは、東京大学大学院総合文化研究科の以下のいずれかに入学する場合です。

 地域文化研究専攻(主所属)

 国際社会科学専攻(兼担)

 人間の安全保障プログラム(協力教員)

​ 国際人材養成プログラム(英語プログラム)(運営委員)

これまでの指導学生の研究テーマは以下のようなものです。

・戦間期リトアニアのナショナリズムと反ユダヤ主義

・現代イスラエルのLGBT運動と動物の権利運動

・エストニアのロシア語系住民とEUおよびロシア

・現代イスラエルの兵役・宗教・ジェンダー

・イスラエルのアメリカ系移民と入植地

・ソ連の言語学者ニコライ・マールの理論とその背景

・ガリツィアのシオニズムと民族間関係

このほかに、来年度から現代日本のナショナリズム、および近代トルコと日本のウルトラナショナリズムをテーマとする院生を受け入れる予定です。原則的には、ユダヤ人、ロシア東欧、パレスチナ/イスラエルを中心とした中東、ナショナリズムやエスニシティのいずれか一つに関するテーマであれば、特に歓迎します。

© 2018  Taro Tsurumi

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