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大学院での研究の組み立て方

​歴史社会学や地域研究の博士後期課程までを想定しています。割と感覚的で抽象的なことを書いていますので、例えば野球のピッチングのアドバイスを求められて、「思い切って投げろ~!」とだけ言って、いいこと言った感を出している人と大して変わらないと思ってお読みいただき、具体的には、各指導教員にお問い合わせください。少なからず違う見解はあるはずです。

以下の内容の8割は、日本語だけでなく英語などの学術書を、お手本としても多読してください、ということに要約されます。2023.12.31更新

<もくじ>

研究の基本

研究テーマの定め方

​​先行研究という難問

​研究の進め方

研究の基本

 

研究核心=広義の研究倫理>

歴史研究や地域研究は、経済学や心理学と比べると、理論と一体化したディシプリンが明確ではありません。しか、研究者自身を律するという意味でのディシプリンがないわけでは決してなく、基本は他の学問とまったく同じです。それは以下の7点に集約されると思います。これらを応用すると、目の前の研究課題や論文執筆を前に、自ずと何をすべきで何をすべきでないかはわかるはずです。それは研究者が踏まえるべき倫理と重なる部分でもあり、いわゆる研究倫理違反は、これらを軽視した場合に起きます。

(なお、インタビュー調査等、生身の人間を対象にする場合は、事前に大学の倫理委員会の審査を受けてください)

①国際的な水準でオリジナルであること。

②事実と論理の僕であること。同時に、仕えるべき事実と論理を常に吟味すること。

③精緻かつ公平であること。

④第三者が同じ結論を導き出せるよう、研究過程全般を透明化すること。

⑤個人の趣味ではなく、公共的なものであること。

⑥研究の過程や成果によって不当に人(自他ともに)を傷つけないこと。

⑦学問の前ではみな平等であること。

(解説)

①「(英語圏では先行事例があるが)日本では初めてiPS細胞を作成した」というのが研究のオリジナリティとしては通用しないように、「日本ではあまり研究されていない」というのは、オリジナリティの足しにはなりません。「日本における第一人者」という中途半端なところに甘んじたくないものです。

研究は国際的な分業ですので、既存の研究の是非を点検しつつも、まだ誰もやっていないことを探求していきます。オリジナリティを重視するからこそ、他人の研究をそれとして言及せずに取り込むと、剽窃として最も重い罪となります。

②研究という営みは、自由度が高いです。結果的に誰も読まない論文を書いても怒られませんし、誰かを忖度しなければならないということはなく、むしろそれは避けるべきとされます。であるからこそ、事実と論理は、せめてどんなことがあっても確実に踏まえなければなりません。いわば、それらを忖度しまくるために、ほかのものを忖度する暇はありません。事実と論理のあいだに自分の勝手な推測が入る余地がないようにギシギシに詰めてください。

 

その一方で、「事実」の判定は慎重に行う必要があります。なかなか見えてこない事実はたくさんありますが、事実が検出できないことと、その事実が存在しないことはイコールではありません。手法や観点によってそもそも出てくる事実が異なりうること、さらに言えば、どの事実が重要であるかの評価が異なりうることも、言うまでもありません。論理を導く出す際にも、まだ見えていない事実、変わりうる事実が入る余地を確保し、一つの方向で凝り固まらないようにします。

また、事実と事実をつなぎ合わせることで論文になりますが、相関関係や疑似相関を因果関係と取り違えたり、そう匂わせて記述したりすることがないよう、論理的にありうる様々な可能性を勝手に捨象しないよう多角的に検証します。

③精緻であることは、評論的な議論との明確な違いとして最も分かりやすい学問の特徴です。そのぶん言えることが限られ、成果を出すまでに時間がかかる原因でもあります。他方で、精緻であれば何でもよいというものではなく、特定の事実を精緻に捉えて強調して打ち出すことによって、より広い文脈での事実の連なりのバランスが崩れて伝わってしまう可能性があることにも留意が必要です(要は、「なんでそこばかり掘るの?」という疑問が生まれることは常に想定しておく必要があるということです)。視野を広くとり、様々なことに対してフェアであることで、研究も豊かになります。

④論文の様々な作法はこのために決められています(詳細はウェブで読める『社会学評論スタイルガイド』などを参考にしてください)。何を根拠に、誰が言ったことを参考に、どのような枠組みや手法を用いて論じているのかを可能な限り明示します。自分自身があとからなぜその結論に至ったのかを10年後でも再現できるように論文を書くことが重要です。これは検証可能性、さらにいえば、反証可能性(K・ポパー)と言い換えられます。現時点で確証が誰にもできない未来予測が学問とはいいがたいのは、そのためです。

⑤世界の80億人のなかで大学で研究できる人はごく一握りであることを忘れてはいけません。趣味や自分の属性・身近な経験を研究のきっかけにするのが悪いわけではありません。ただ、世の中の誰もが学問に等しくアクセスできるわけではなく、アクセスできない人の立場からも考えることが大切です。また、自分の研究が世の中でどのような意味を持つのか、その意図せざる効果を含めて考えると、いろいろと勉強になります。

⑥上記のことと関連しますが、個人的な欲望を満たすためだけに学問するわけではない以上は、他者のことを無視するわけにはいきません。間違った事実の提示やバランスを過度に欠いた議論、過大なカテゴリ(「○○人は△△だ」など)の使用は避けなければなりません。関係のない人を巻き込んではいけません。テーマの重大さ、議論の明快さ、これまでの業績は、そのことをなんら正当化しません。また、研究によって自らの健康を損なうことがないように、よく寝てよく食べ、そこそこ運動しましょう。

⑦学問は誰にでも開かれたものです。上記を満たしている研究は、一度発表されればそれはもう公共物ですので、生み出した人の個性にかかわらず、平等に扱われなければなりません。単に偉い人・有名な人だからといって、安易に依拠したり過剰に配慮したりするのではなく、批判的に継承する/乗り越えることを考えたほうがいいです。将来就職してから、自分は一通りやったからもう査読を受けなくてよいなどと考えるのもダメです。平等だということは、いくつになっても論文は査読誌に投稿しなければならないということです(自戒を込めて)。

<いわゆるディシプリンをどうするか>

社会学や政治学といったいわゆるディシプリンは、それを着実に踏まえておけば、①~⑥がある程度許容範囲に収まる建て付けになっているフォーマットだといえます。地域研究であっても、自らが関心を持つ対象やその側面にふさわしい主要ディシプリンを一つ選び、基本を勉強しておくことをお勧めします。それは、事実と論理に縛られながら自由に研究を進めることがどのようなことなのかについての感覚を得るための確実な方法でもあります。​地域研究では政治学や文学、歴史学が一番多いと思いますが、それ以外もぜひ見てみてください。

<どのように身に着けるか>

ディシプリンの教科書を熟読することも重要ですが、「習うより慣れろ」で、実際にそのディシプリンを用いた論文や学術書をいくつも読んで、どのように論じているのか、何がキー概念になっているのか、自分ならどうするか、などを考えながら、研究手法や論じ方、言葉遣いを学ぶことが最も近道だと思います。その過程で定番の概念や切り口(逆に言えば、一時の流行にすぎないかもしれないもの)が何かもわかってきます。自分が論じる際も、それらの研究といかに絡むかを考えながら書いていくと、読み手にもどのようなことを議論しているのかがわかりやすくなります。

 

定番の用語や概念は、長年にわたる世界の研究者の精査を経て生き残っているものですので、それ相応の重みがあります。ろくにそれらを参照せずに自分で勝手に言葉を作って勉強不足を告白するようなものです。批判する場合は用意周到に行きましょう。

研究テーマの定め方

 

<憧れの追随は避けつつ、なぜ憧れるかを考え、また少し疑う>

憧れを抱く、あるいは心が震えるほど面白いと思う既存の研究テーマや学術書、論文などがあると思います。それを自分でも深めたいと感じるかもしれません。しかし、そのまま進んでも二番煎じにしかなりません。ただし、憧れるという事実までを否定する必要はありません。むしろ、なぜ憧れるのかを突き詰めて考えてみてください。そこで抽出されたものが、自分にとっての琴線なのかもしれません。そこに触れ続けることができるテーマを選ぶと末永く楽しめるのではないでしょうか。

他方で、上記⑤の公共性の観点についても考えてみてください。自分がそのようなことに関心を持つようになったのはなぜか。それは以下の先行研究の項目で記すように、先行研究の蓄積ゆえであるところは大きいはずです。典型的なことを一つだけ指摘するなら、これまでの先行研究の多くは先進国の経済階層では中層・上層の男性によって提出されてきました。もちろん、公共性の観点を少なからず重視する人はいたでしょう。しかしそれでもホモソーシャルな環境から生まれる観点にはおのずと限界があります。

長年の先行研究の蓄積を急に変えられるものではないので、とても大変な問題がそこにありますが、​まだ先が長い時だからこそ、このスケールで問題を考えていただくと、より自由度の高い世界になるのではないかと愚考します。

<オリジナリティはテーマから始まる>

ありがちなテーマをありがちな手法でやると、オリジナリティをいかに出すかでずっと苦労することになりかねません。また、学界の大勢や流行の逆張りをするだけでは、その時点で大勢や流行にかなりを規定されていて、そのまま進んでも二番煎じを反転させたものにしかなりません。

 

テーマと手法の組み合わせとしてオリジナルなものが何か、それにどのぐらいの意義があるのかを事前にしっかり「マーケティング」してみてください。普段から多様なテーマや手法の学術書を読み漁っておくと、勘が冴えます。ある程度テーマが絞れたら、国際的に競合相手がいないか徹底して調査しましょう。学問の基本の一つは国際分業ですので、わざわざ「競合他者」がいるテーマを選ぶのは得策ではありません。

<複数の方面に旨味があるテーマにする>

地域研究としてもディシプリンとしても面白いテーマは強いです。地域研究として出してもディシプリン系の学会で発表しても、どちらでも恥ずかしくないものであることが必要になりますが、相互作用によって自分自身のなかで研究が鍛えられていくはずです(セルフ指導教員)。

<組み合わせの妙を狙う>

そのこととも関係しますが、よく研究されているテーマが2つあるとして、そのあいだをつなぐテーマは誰もやっていないことがあります。あるいは、特定のディシプリンでしか研究されていないテーマを別のディシプリンでやる手があるかもしれません。そこが狙い目です。たくさん学術書を読み漁るのは、この勘を養う意味でも重要です。

先行研究という難問

 

<先行研究がないことを先行研究を使って示す>

上記のごとく、直接の先行研究がないテーマを用意周到に定めるわけですが、論文を書くうえで先生にしつこく言われるのは、先行研究を示しなさい、というものです。ないから自分が研究すると言っているのに、センコーは意味が分からないと悪態をつきたくなるかもしれません。

実際には、隣接する研究はたくさんあるわけです。そもそも、自分がそのテーマにたどり着くために必要とした知識を提供してくれた研究はすべて先行研究といえます。それらのなかで特に重要なものをいくつか示して外堀を埋めて、本丸である自分のテーマが際立つように紹介していきます。

 

例えば、「ロシア帝国でシオニズムはなぜ生まれたか」というテーマを掲げる場合を考えましょう。ロシア帝国のユダヤ史に関する研究は英語やヘブライ語などで結構存在しています。ロシア帝国史にに関する研究もたくさんあります。ユダヤ人以外のマイノリティに関する研究もあります。

上記のテーマを掘り進めるうえで、これらの既存の研究は確実に利用することになるわけで、まずは最も重要な先行研究といえます。カギとなるのは、それらがあるのになぜ自分が取り組もうとしているテーマの研究はまだないのかについて読者が納得できるように書くということです。探し方が足らなくてないのではなく、理由があってないのだ、と説得するのです。

ロシア・ユダヤ史の事情としては、研究を多くやっているアメリカ・ユダヤ人の観点から、多民族国家でユダヤ人がいかに共生しようとしていたかを示す研究やその後のソ連との関連で社会主義に関するものが多いために、シオニズムに関心が向けられないことなどを、それらの代表的な研究に触れながら紹介します。ロシア帝国史については、ソ連崩壊以降の時期に、その新たな側面に触れる研究が生まれてきたことに触れ、まだユダヤ人関連、特にシオニズム関連についてはその観点から手がつけられていないことを指摘します。シオニズム研究の事情としては、全ヨーロッパ的運動として記述される傾向があり、地域別の研究が少なめで、ロシア帝国に関してはさらに少なくなるということを、やはり関連する研究に触れながら紹介します。

次に、シオニズムをナショナリズムと読み替えて、ユダヤ人関連に限らずナショナリズムの発生一般について論じた有名な研究に触れながら、自分の研究がそれらのなかでどれに近いのかを説明し、それらと比べても新しいところがあるならばそれをアピールします(そしてやはり、なぜ今までそのような研究がなかったのかを説明します)。

​また、手法、方法論についても、先行研究に準じるならばそのように、違うならば違うと、それぞれ理由を添えて説明します。違うとしても何もかも違うことはないはずですので、やはりそれまでの蓄積のうえにどのように立っているのか、何を新たに加えたのか、ということを書きます。

​このように示していくことで、実際に自分が前提知識として依拠する諸研究を紹介しながら、単なる思いつきではなく多角的に関連する研究を渉猟したうえでこれから取り組むテーマを定めたのだということを納得してもらうわけです。

<研究史として記述する

以上のことを、当該分野・関連分野の研究史として記述すると効果的です。これまでの諸研究の蓄積の先に自分の研究があるということ、また、これまでの研究が特定の方向性で蓄積されてきたからこそ、空白地帯が残ってしまい、そこを自分が埋めていくのだ、ということが大きな流れのなかで示されていると、読者は、なるほど、この研究者はいろんなことを調べて勉強したうえで重要な研究テーマにたどり着いているなと感心することになります。

なお、先行研究は、研究を進めていくにしたがって整理されていく部分もあるので、論文で最初のほうに書くからといって、最初にすべて片付けてから自分の研究を進めなければならないということではありません。研究を進めるうちに重要な観点に気づいて、そこにも重要な先行研究があると分かったり、単純に今まで見落としていた先行研究を見つけたり教えてもらったり、ということはよくあります。

以上を要約するならば、先行研究の紹介とは、既存の最も近い研究を分野別に列挙して、それぞれ自分の研究との関係性を示しつつ、自分の研究がどのような蓄積のうえに、また広がりのなかにあるものなのかを示すことであると定義できます

研究の進め方

 

<予測が外れるのが最良の成果と考える>

古代においてシャーマンが尊敬されたように、予測が当たる(感じがする)人、あるいは当たりそうな予測を理路整然と言える人が一般の注目を集めがちではあります。しかし、研究者としては、予測が当たることによって自分に才能があるなどと考えるべきではありません。

 

もちろん、研究を進めていくうえで、ある程度アタリをつけて史料を読み込むとか、インタビュー対象者に探りを入れていくことは必要です(ただしインタビュー対象者は人間ですから、より慎重さが求められます)。量的研究では「仮説」と呼ばれるものです。しかし、それが外れることに​こそ、学問の醍醐味があります。まさに、研究を進めたからこそ、既知に基づく見立てが間違っていた、つまり既知に不備があることが分かった――要するに、今まで見えていなかったことが初めて見えた――ということだからです。

 

そうした事態に直面すると、今まで思い描いていたことが崩れるので、途方にくれるものです。でもそこで建て直せば、現れるのはオリジナリティあふれる論文かもしれません。

一方、自分の予測が当たることに悦びを覚える態度でいると、おのずと予測に都合のよいデータしか見ないようになります。しかも文章がうまいと、それで意味が通る文章が書けてしまうのが怖いところです。もちろん、何もかも予測が外れるのは大変ですから、一旦は予測に従って組み立ててみる工程を入れることも悪いことではありません。ぐるぐる回りながら少しずつデータに合わせて形を変えていく(整形する、というより、本質から変わっていく)イメージでやっていくとよいかもしれません。

<専門家と会う・国際学会で発表する>

日本でやっている人が少ない分野であれば、なおさら、世界の研究者とつながることが大切です。自分がどういうことに関心があってなぜその人の話を聞きたいかを丁寧に説明すれば、まず間違いなく会ってもらえます。

 

また、国際学会も、博士後期からでよいと思いますので、ぜひ、意を決して応募してみてください。私はD1のとき、Association for Israel Studies(AIS)の年次大会がちょうど留学中のイスラエルで行われるタイミングだったので、誰も知り合いのいない学会でもあり、かなり勇気がいりましたが、「ええい、ままよ」という、高校の古典で学んだ、さほど現代的でない現代語訳を思い浮かべながら応募しました(大会自体はD2の6月)。あと、「清水の舞台」という言葉も浮かんだ記憶があります。今考えれば全然大したことではなかったのですが。学会によっては、競争率が高くて、応募しても落とされることがあります。私もありました(AISではありません)。それを想定しつつ、めげずにいくつかに応募してください。提出するのは、普通は数百語の要旨だけです。

 

学会は、その道の一流研究者がたくさん集まっていて気軽に声をかけることができます。また、セッションでは、ぜひ積極的に質問してみてください。自分の理解が深まるだけでなく、セッションが終わってから、ギャラリーの人から、「あの質問は面白かった」などと声をかけてもらうことがあり、そこでまた世界が広がります。

 

各学会、ウェブサイトから誰でも応募でき、裏技などは一切ありません。初めての英語の発表で、不遜な私もさすがにかなり緊張しましたし、今考えるとショボい発表だったものの、貴重な人のつながりができました。この学会はその後も定期的に発表したり参加したりして(発表は通算4、5回)、他の学会とも一部メンバーが重なることもあるので知り合いも増え、何年かに一度行くと同窓会のような感じでとても楽しいです。今では、Board Member(理事会)に加えていただくまでになりました。

<他人からの評価、特に査読結果をどう受け止めるか>

実験ができないばかりか、似たケース同士の比較すら難しい歴史系・地域研究系の学問において、他者のコメント・質問というのは大変貴重なものです。ですから、いろいろな場所で発表したり投稿したりし、草稿には少なくとも指導教員からはコメントをもらうようにしてください。それが指導教員としての仕事の最も大きな部分ですから、遠慮をしてはいけません。

しかし時に的外れだと思うコメントや質問に遭遇することがあります。「そこは問題にしていない」「そこは主旨とは違う」「そんなことは言っていない」と言い返したくなるかもしれません(指導教員には率直に言い返してください)。論文の査読でも、日本の雑誌でも英語の雑誌でも、いい加減な査読者、専門性に難があるのではないかと思われる査読者は一定の割合でいます。自分の主張ばかりで、論文を読み込もうとする姿勢がないのではないかと思える場合もあります。論文の掲載は査読者のコメントによってほとんどが決まりますので、それで落とされてはたまらないと感じるのは当然です。

私も掲載された数より落とされた数のほうが多く、数々の苦汁をなめてきました。目いっぱい努力して書いた自分の論文を掲載に値しないとするコメントを、どう受け止めるべきか。もちろん明らかに不当な評価である場合は、一呼吸置いてから編集委員会や編集長に異議申し立てを行うこともできます(それで逆転して掲載に至るケースはたぶんかなり少ないですが)。

 

しかし、私自身の経験でいえば、何年か経って見返してみると、論文の主旨からすると的外れなコメントでも、指摘は当たっていたなと思うことがあります。例えば、粗い部分に関する指摘は、前のめりな自分からすると重要でないように思ってしまいがちですが、上記の研究の原則からすると、論文全体の信頼性に関わることだったりします。また、結局のところ、そこぐらいしかコメントするところがなかった、つまりは、メインのポイントはあまり説得的でも面白くもなかったということを意味しているのかもしれません。

ゼミや学会などでも、ズレた反応が目立つ場合、自分の伝え方が悪い可能性や、テーマやキーワードがそういう反応を呼び込みやすい可能性など、なぜそのような反応が来るのかということ自体を考察の対象にしてみてください。論文は伝わらなければ意味がありませんし、もともと同じ意見の人よりも違う意見の人を納得させられるかが最も肝心なところですので、そういう反応があるということもまた、反省のきっかけとしてとても貴重なものです。

もちろん、査読者にセンスがなかったとか、雑誌との相性が悪かったという場合も考えられますから、あまり思い悩みすぎる必要はありません。英語まで視野に入れれば無数に雑誌がありますので、「次行ってみよ~」の精神で、コメントを踏まえて改稿しつつ、別の雑誌に投稿しましょう。

 

私は、特定の分野の雑誌に結構投稿したことがあるのですが、一度も掲載されたことがないまま今日に至っています(院生時代に2つの雑誌に計4回ぐらい落とされたと思います)。一方、地域研究系の雑誌には、日本語でも英語でも割と掲載されやすかったです(英語誌で何度も落とされたのがありますが)。でも落とされた雑誌の学会から、博論本で賞を頂いたことがありますので、短い分量だと伝わらないこともあるのだと思います。全精力を注いだ論文が落とされるのはしんどいですが、長い目で考えていきましょう。私は精神衛生の観点から、投稿した瞬間に、落とされる前提で次にどこに投稿するかを考えています。

<政治性との兼ね合いをどうするか>

紛争地域に関する研究、マイノリティに関する研究、政治そのものに関する研究など、意図せずして政治性・論争性を帯びてしまうテーマがあります。上記の「研究の基本」の7つの原則を踏み外さないように気をつけながら、それぞれのやり方で工夫を重ねる以外にありません。そもそも、市民生活において、本来政治は避けられないはずのもので、ましてや国際的な営みである研究活動がそこから自由であるはずがありません。

もっとも、学問なんだから政治的に中立的で客観的であるのは当たり前だ、と片付けようとする向きは少なくないと思います。でもことはそう簡単ではありません。何を中立とするか、何が客観的かはそれ自体論争的で、その暫定的な解が、ある政治的立場に親和的で、意図せずして利用されることはままあります。勝手に使うやつが悪い、というのは、上記⑤の公共性の観点から問題がある態度です。

 

例えば、イスラエルとパレスチナ自治区をそれぞれ主権国家と見立てて分析するとします。それ自体は中立的で客観的に見えます。しかし、そもそも主権が確保できていないパレスチナ自治区には随分と無理がある見立てで、イスラエルが実質的にパレスチナ自治区を制御している事実を看過することになります。しかも、こうした分析ばかりが大勢になると、パレスチナ自治区の外に暮らしているパレスチナ難民のことを無視する結果となります。こうした事態は、論者の意図とは別に、結果としてイスラエルの主流派が望む現状を追認する議論と親和的になります(あるいは逆に、主流派に増えている、パレスチナ自治区をそもそも将来的な国家と認めない向きには反しているという意味でも、イスラエルのなかの特定の意見に肩入れしていることになります)。

政治的主張を前面に出すべきかどうかは、もちろん議論が分かれるでしょう。言い方が挑発的であったり断定的であったりすると、議論の相手の心を乱し、冷静な議論が阻害される恐れはあります。断定的であるのは上記③の原則に反しますし、議論の相手が冷静さを保って能力を最大限発揮できるよう配慮することも建設的議論を進めるうえで大切です。しかし、前面に出しさえしなければ中立的で客観的であると考えるのはナイーブにすぎます。​​​

 

その一方で、政治的戦略に関する学問ゆえの基準はあるかもしれません。それは短期的な観点と長期的な観点が矛盾する場合に、学問は後者を重視するだろうということです。というのも、修士論文までに最短で2年、博士論文まで最短でさらに3年、査読論文も、ほぼそのまま掲載というめったにない判定が出たとしても投稿からオンライン刊行まで最短で半年以上はかかる世界ですので(たいてい、よくて要修正判定ですから、1年はかかります)、長期を見据えて今何をすべきかを考えるのがデフォルトだからです。

<スケジュール>

修士課程では、ほぼそのままで投稿できるレベルの卒論がない限りは雑誌に投稿する必要は特にありません。修論に全精力を注いでください。自分の研究のオリジナリティがどこにあるのかを明示するには、隣接領域を含めて既存の研究を熟知しておく必要があります。また自分の研究のための手法も修士課程でできるだけ確立します。それらをマスターしているかどうかが、マスター論文の要件ということになります。

 

何事も、最低限のレベル(当落線上のレベル)を早めに確保しつつ、残った時間で確度を上げたり守備範囲を広げたりしていくという段取りでやっていくと、締め切りと調整がしやすくなると思います。

博士課程進学後は、修論を学会発表や投稿論文に発展させることを進めながら、博論の各章を積み上げていきます。かつては5-6年(さらにその前は数十年)はかけていたのを今は極力3年でやることになっていますから、昔の博論と比べてはいけません。かといって、研究テーマが小粒になるのはよくありません。本にするまでの5-6年で一通り完成することが想定されるテーマを設定しつつ、基幹部分や前半部分を博論として提出し、残りを本として出版するまでに進めるという方向性がよいのではないかと思っています。

 

雑誌論文も、かつては3編ぐらいは出してそれらをまとめて博論という感じでしたが、投稿から掲載決定までのスケジュールを考えても、1編ぐらいでもやむをえないと思います。ただ、査読プロセスを理解したうえで掲載にこぎつける力は研究者として必須ですので、少なくとも日本語で1つはなければ厳しいのではないかというのが私の意見です。

まだこのあたりは文系では過渡期ですので、教員の側にも迷いや不明な点、意見の不一致がたくさんあります。指導教員や先輩などとしっかり相談しながら進めることが大事です。

​研究は超長距離走ですから、生活パターンとして、できるだけ規則正しく過ごすことが大切です。締め切り前に睡眠不足というのは長期的には大変効率が悪く、健康を害するリスクを一気に高めます。睡眠学によれば、睡眠が少なくて済む人間はこの世に存在しません。規則正しく生活してできないことは、どんなことをやってもできないと諦めましょう。

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