top of page

Taro
Tsurumi

『ユダヤ人の歴史』(中公新書)正誤表

拙著初版に含まれる誤植や改善すべき表現について、以下の通り訂正ないし補足いたします。確認不足とご不便をお詫びいたします。また、ご指摘くださった方々にお礼申し上げます。以下は重版以降および電子版で修正されます。その他お気づきの点は、メール等でぜひお知らせください。

印刷に適したPDFはココからダウンロードできます(ただし3版訂正分まで)。切り取って本に収納しやすくしています。

​凡例:修正前 → 修正後

​<2版(第2刷)修正分>

・p. 14(6行目) 前一五〇〇年頃 → 前一五〇〇年頃

・p. 77(2行目) 予言者的 → 言者的 

※参照先の翻訳書に揃えていたのですが、原語がpropheticで、本書が他の箇所で「預言者」としているものと同じなので統一することにいたします。

・p. 99(7行目) 共同投機 → 共同投機ないし協業 

※参照した文献が行っている定義joint ventureの訳ですが、イスラーム研究者のあいだでは「協業」と訳されることが多くなっているとのことで併記することにします(取引相手がムスリムの場合もありました)。

・p. 129(9行目) 四四の女子高 → 四四の女子

・p. 208(7行目) 左図のように → 前頁の図のように

・p. 222(後ろから3行目) 東ガリツィアのヴォウィン → 東ガリツィアの北隣に位置するヴォウィン

・p. 237(7行目) 書記長 → 第一書記

※スターリン時代と異なり、フルシチョフは「第一書記」を名乗りました。次のブレジネフ期に「書記長」に戻りました。

・p. 296(後ろから3行目) 判事に指名されたときは同校の → 判事に指名される前年まで同校の

・p. 297(1行目) 移民を禁じるようなものだとして反対を表明した → 移民を禁じるようなものではないかと問うた

<3版修正分>

・p. 92(4行目) サラディンの医師 → サラディンの宮廷医

・p. 94(6行目) ラビであり → ラビの子であり

※このほか、訂正ではありませんが、p. 150のベシュトに関して「よき信仰治癒者」という意味であることについて補足が入ります。

<4版修正分>

・p. 120(後ろから4行目) 彼はポルトガルからイスタンブルに移住後 → ポルトガルに生まれたナスィはイスタンブルに移住後

※ナスィはイスタンブルに落ち着くまでに他の地域にも移住していますのでこのように修正します。

※このほか、補足として以下【】部分を加筆しています。27頁後ろから6行目:「ユダヤ」(ヘブライ語で「イェフディ」【、「ユダの」の意】)

<5版修正分>

・p. 95(後ろから4行目)ローマ帝国の属国となっていたユダヤ王国さえも70年にローマに破壊されて以降、
→ 二度のユダヤ戦争でローマ軍に惨敗し、エルサレムから追放されて以降、

※この時、ローマ帝国の「属州」でしたのでそう書くのが正確ですが、「王国」が「属州」というのも違和感があるので、全体的に支障がないように書き換えます。なお、本書では、第2神殿が破壊されるまではユダヤ王国と呼ぶことにしています。厳密には、ハスモン朝が終わった時点で王国は終焉したとすべきですが、ユダヤ人の主観として神殿の有無がとくに重要だったと考えます。

<6版修正分>

・p. 260(7行目)…三三万人が建国後にイスラエルに移民 → 三三万人が建国に前後してイスラエルに移民
※依拠した文献には建国「後」とはっきり書いておらず、少数ながら建国直前も入っていたことから、このようにします。

・p. 291(3行目) イスラエル以外の国の実質的なトップに → イスラエル以外の国で選挙を経た実質的なトップに
※短期間ですが、ハンガリーでユダヤ人のクン・ベラが実質的なトップについた例がありますので、それと差異化するために「選挙」を入れます。

 

© 2018  Taro Tsurumi

bottom of page